日本にある石橋との関係 
 
ヴィリ・ミーツェ氏(1956年~1971年にかけてシュタインブリュッケン町長就任)、 ハインツ・ホフマン氏(合併によりディーツヘルツタールとなって、1971~1980までの新町の初代町長)や新聞者などの 告により、皆さんの協力をいた いて、その文 が生まれました。 
ディーツヘルツタール・シュタインブリュッケンと石橋町(人口2万人)の友好関係は、日本国際医学協会初代理事長である石橋長英教授とシュタインブリュッケンの町長ヴィリ・ミーツェ氏(1956~1971)の関係に基づいたものです。 
東京に生まれた石橋長英教授は、1962年5月 、ドイツのディッル郡にある小さな町が自分の名前と同じ意味を持っていることを知りました。 
そして、同年の6月 、石橋教授は自分の苗字と同じ意味を持つ町の人と知り合いになりたいと思い、教授はヘッセン州にある大企業Hoechstの 染色工 で働いている友人に、同じくヘッセン州にあるシュタインブリュッケンのミーツェ町長から絵葉書を送ってもらえないかとお願いしました。
ミーツェ町長はその願いを受け入れ、絵葉書、地方新聞、染色工 についての記事などの案内を送り、次回、ドイツを旅する時にはシュタインブリュッケンを訪問するよう教授に伝えました。 
1962年6月21日に石橋教授が手紙を送りました。内容は、同年9月、ドイツのフランクフルトに行くつもりなので、この機会にシュタインブリュッケンを訪問する予定です、というものでした。 
そうして、1962年9月16日に石橋教授が初めてシュタインブリュッケンを訪れました。息子一人と染色工 で働いていた友人と一緒に時間どおりに目的地へ着きました。 晴らしい歓迎が待っていました。町民が道の両側を埋め尽くしていました。ミーツェ町長が歓迎の挨拶をしたり、生徒が詩を朗読したり、花束を渡したりしました。役 の前で、合唱団が歌を披露し、ミーツェ町長が議会を紹介して、教授に鋳型やシュタインブリュッケンの絵を贈呈しました。 
有名な来客となった石橋教授は、いた いたお土産の代わりに壁掛けをお返ししました。その壁掛けにはピカピカと光る幸運の鳥が刺繍されていました。それについて、教授が流暢なドイツ語で、「自分が渡り鳥となって、何度もシュタインブリュッケンに戻ることを願っています」と述べました。ミーツェ町長が「来るたびに、良い巣を作ってあげるよ」と機転の利いた答えを返しました。 
この日本からの来客に、ミーツェ町長は地図を使ってシュタインブリュッケンについて教え、いろいろ語ったり説明したりしました。石橋教授は1時間しか滞在しませんでしたが、昔から知っている友人に会ったような感覚でした。石橋教授にはドイツにたくさんの友人ができました。ドイツ人にとって一番好きなことは「ダブルM」・(「MM」)であり、それは、ドイツで作られている有名なスパークリングワイン(M&Mというスパークリングワイン)という意味ではなく、Musik (音楽)のMとMenschlickeit (おもいやり)のM という意味ですと笑顔で説明しました。 
お別れの時、将来、ドイツに行くという表現の代わりに、シュタインブリュッケンに行くという言い方を使うようにと、ドイツの友人たちがシュタインブリュッケンの町民として、教授に約束しました。 
石橋教授は、この訪問について帰国後に新聞で 道しようと思い、内科医である息子にカメラマン役を んで、現在では残っていない橋のアーチを撮影してきました。おそらく、この橋に町の名前の由来がありました。その橋のおかげでシュタインブリュッケン町民が海を越えて、極東まで友好関係を広げることができたのです。 
1963年10月に、石橋教授は2回目のシュタインブリュッケン訪問をしました。ミーツェ町長は、前回の約束を教授がこれほど早く実現するとは思っていませんでした。この訪問はさらに個人的なものでした。なぜかというと教授は町長の家族とも知り合いになりたかったからです。教授は、奥さんと親戚を一人、そしていつも同行していた染色工 の友人を連れてきました。教授の奥さんは初めてドイツに来ましたが、とても美しい着物を着て、元気そうで、気分も良さそうでした。ほかの人がその光景を見たら、昔から知っている友人同士が再会しているような印象を受けるのではないかと、新聞で 道されました。 
お土産を渡してから、いろいろ話が始まりました。ハインツ・ブレーマ議員、ケーラ博士、薬剤師のシュトークさんも合流しました。昼食を食べ終わっってから、ミーツェ町長が一行を町の中へ案内していると、どこに行っても、町民が親しげに手を振ってきました。町のスポーツグラウンドに着いてから、町長がシュタインブリュッケンについての説明を詳しく続けました。その間ずっと雨に降られましたが、日本人たちは町の自然に圧倒されていました。「来年、また来ます」と石橋教授が約束しました。
ところで、この旅においては、ヘゥッス大統 も来町されました。
石橋教授が毎年ドイツを訪れシュタインブリュッケンの皆さんに再会できるように、また友情が守られるようにと、ヘッセン州にあるこの小さな町に大統 が来てくれたのです。 
石橋教授がシュタインブリュッケンに来るたびに、町の入り口にある緑地で歓迎会が行われました。そこに、現在では、石橋庭園ができて、 敵なところになりました。
庭園のために、教授が石灯 を寄付しました。その上、1968年の7回目の訪問の際、詩が刻まれている記念碑(日本の火山岩で作られたもの)を町にプレゼントしました。 
その詩は、「人と村 同し名もてり すみれ咲く」という俳句でした。その俳句のドイツ語訳が小さな鉄板に彫り込まれました。作者は、アカデミー賞を受賞している日本の詩人であり水原秋桜子という方です。石橋教授が俳句の作成を依 したそうです。句の意味は、寄付者とシュタインブリュッケン町が同じ名前を持っていることを指し示しています。 
除幕式の時、ミーツェ町長は、出席した人々に日独の友好関係を意識させ、シュタインブリュッケンでは我々の友情が毎年証明されていることを強調しました。
儀式には、シュタインブリュッケンの町民 けではなく、隣の町からもたくさんの人々が来てくれました。例えば:
シュレ パさん(エイベルスハウゼン村)、ブッシュさん(ヒルツェンハイン村)、ドンゲスさん(エヴァースバッハ村)、ザイベルさん(マンデルン村)、ヴォークト(マンダバッハ村)、郡丁の代表であり収入役のプファッネクーフさん。 
レストラン・シュウェデスでの食事会で、記念品の交換をし、石橋教授が故郷交通クラブの名誉会員に指名されました。
石橋教授は毎年シュタインブリュッケンを訪れて、日独間の友情がどんどん深められていきました。その友情がこれほどに強くなった事実を受けて、1971年に4町合併が実行された時、ディーツヘルツタールという新市の市長となったハインツ・ホフマンさんが、日独友情を厳かに守り推進する必要であるのではないか、ヘッセン州にしかない友情関係であり、おそらくドイツ全土において珍しい事例なのではないかと強調しました。 
1973年4月にホフマンさんとミーツェさんが初めて、日本に行くこととなりました。東京に住んでいた石橋教授が、自身の80才の誕生日に招待したのです。その際に、二人がディーツヘルツタールの市民を代表して石橋教授に心からのお礼として、教授をディーツヘルツタールの名誉市民としました。 
ドイツ連邦共和国が石橋教授の80才の誕生日にあたり、医学に対する功績をたたえるため、紫綬褒 を与えました。二人の訪問者にとってもう一つ重要な思い出になったことは日本にある「石橋」の訪問でした。誕生日の翌日、石橋教授はもちろん、在日ドイツ大使館付き文化担当官シェーファー博士を含めた団体26人が東京から約100キロ離れた石橋町へ旅立ちました。当時の若松町長が10キロ手前まで迎えにきました。石橋町役 の前では、一般町民や役 の職員ら約100人が出迎えて歓迎し、女性職員が花束を渡したり、花火の音でドイツからの来客を知らせたりしました。
来客に日本茶が出されてから、役 での見学が始まりました。議会で議員による挨拶があり、お土産などの交換が終わってから、役 の庭で記念植樹を行いました。
次のプログラ は学 訪問でした。10年間に渡り、両町の生徒たちが絵を交換したり、その絵を教室に飾ったりした経緯がありました。
学 の楽団80人を含め約2000人が歓迎のために集まりました。旗や花綵が飾られ、歓迎コンサートが行なわれたり、町長の挨拶のことばがあったりしました。
ドイツ・シュタインブリュッケンに贈られた記念碑が日本の石橋にもあり、そこに花を供えて、木も植えられました。生徒たちが手作りの詩を朗読したことが一番感動を与えた瞬間でした。
「私たち全員が言葉の温かさ、一度始まったことを続ける意志、そして、これから友情が続く希望を感じられました。」とホフマンさんが感想を述べました。 
地域の楽団が両国の国歌を演奏して、若松町長が再度挨拶しました。会食をしたり、何百人もの人と握手したりしました。ドイツへの招待や今後の友好 結が大きな拍手で賛同されました。すでに、1974年に日本人の団体が初めてドイツを訪問しましたが、1975年4月25日に石橋町とディーツヘルツタール町の姉妹都市 結が実現されました。 
石橋教授が述べた言葉「思いやり」が、両町の町民の心の中に留められました。
石橋教授はシュタインブリュッケンを計20回訪問しました。1981年の20回目の時、教授が当時市長になったばかりのドライシッヒアッカー市長に言いました。「やる気があれば、君にもできるよ」。その時、石橋町の柏崎助役もドイツにきました。ミーツェさんとホフマンさんのお墓参りをすることが重要な目的でした。二人とも元町長であり、1980年に亡くなりました。 
姉妹都市関係の歴史 
1978年8月に、エバースバッハの男子合唱団「アイントラハト」が講演会のために石橋町を訪問しました。1979年には日本から29人の団体がドイツを訪問し、その際、石橋庭園に「春風や名にむすはれし 町と村」という俳句が刻まれた記念碑が建てられました。 
1980年に子どもの楽団が日本に行き、同年、石橋教授一行10人がディーツヘルツタールに来ました。 
ドライシッヒアッカー市長とフィックス助役が1982年10月に石橋町を訪ねました。 
1984年に、姉妹都市関係を推進するため「日独橋の会」がディーツヘルツタールに設立されました。 
1985年9月に、姉妹都市10周年記念パーティーが行なわれました。 
1988年7月に、石橋町から5人がディーツヘルツタールに来ました。
同時に、エバースバッハの学 では、日本人の子どもたちが描いた絵の展示会が開かれました。 
1990年9月に98歳で石橋教授が亡くなりました。ディーツヘルツタール市長を代表して、教授に弔意を表するため3人が石橋町へ行きました。 
1996年8月17日から8月21日にかけて柏崎町長を団長として、23人の中学生派遣団がディーツヘルツタールに滞在しました。日本人の中学生がホー ステイをしながら、ホストファミリーと一緒に過ごしました。ホストファミリーもプログラ に参 して、ケルン大聖 見学やライン川下り、マールブルク市内見学やボウリング大会などのイベントが行なわれました。エバースバッハの公民館で、朝の会食をしながらお別れしました。
 
1996年11月1日~7日まで、石橋町のグリ の館の落成式にあたり、ドライシッヒアッカー氏、フィックス氏、グロース氏の3夫妻が石橋町を訪れました。 
1997年4月1日から8日までの、ちょうど花見の時期にディーツヘルツタールから少年少女親善訪問団が石橋町を訪ねました。このとき60人の応募があり抽選会で参 者が選ばれました。生徒12人(14歳から18歳)と引率者3人が長い旅に出ました。
青少年の団体が日本の姉妹都市を初めて訪問したのがこの時でした。やはりホストファミリーと一緒に過ごしました。ホー ステイをしながら、日本の日常生活を経験することができました。滞在プログラ は石橋町役 に任せてありましたが、ドイツからの訪問団も歌や「白雪姫」の劇でプログラ に貢献しました。
日程は、役 での歓迎会、柏崎町長の挨拶、そして茶道体験、中学 見学、柔道体験、東京、宇都宮、日光、富士山への 足でした。 
若者たちはいろいろなものに圧倒され、感動しました。「言葉で表せないくらい 晴らしかった。」と生徒たちが言いました。お別れのとき、互いに涙を流しました。 
1999年、日本から21名の中学生訪問団がドイツの姉妹都市に来ました。
2000年8月、姉妹都市 結25周年記念及びマンデルン町(*)1200年祭 を記念し、第4次親善訪問団がディーツヘルツタールを訪れました。 
2000年9月23日に、柏崎町長から贈られた五重塔 の除幕式がハッマバイア において行なわれました。80人が来 しました。 
2002年7月22日から27日にかけて、アウラント市長一行36名が石橋町を訪問し、同年8月、第3回石橋町中学生海外派遣団21名(内、中学生16名)がディーツヘルツタールでホー ステイにより交流しました。それに対して2003年4月2日から9日までドイツから少年少女親善訪問団が石橋町へ行きました。 
1998年から石橋町長に就任した新井活也氏が2002年10月27日に再選されました。 
石橋町から2004年9月25日から28日まで第5次親善訪問団24名がドイツの姉妹都市に行きました。 
(*)・・・マンデルンはディーツヘルツタールの一地区です。 
2005年4月22日から28日まで、アウラント市長一行35名がちょうど姉妹都市30周年記念のとき、石橋町を訪問しました。石橋町のグリ の館で姉妹都市関係についての企画展が開催され、歓迎会並びに30周年記念パーティーには約200人が来 しました。 
ドイツ側でも30周年にあたり、祝賀会が催されました。2005年8月17日から23日にかけて、第4回石橋町中学生海外派遣 修が行なわれ、8月19日にエバースバッハ公民館での30周年記念パーティーが、姉妹都市関係に重要な役割を果たしました。 
2006年3月には青少年交流が引き続き行なわれ、3月23日からドイツの中学生18名が、新しく誕生した下野市に滞在しました。最近、日本では全国的に市町村合併が行なわれており、 木県にある石橋町は、隣接する南河内町と国分寺町の3町で合併し、下野市となりました。
合併が決定されたと同時に、姉妹都市関係が継続されることも決まりました。 
2006年1月10日に、合併が行なわれ、2006年8月7日より広瀬寿雄氏が新市長に就任いたしました。1992年に設立した石橋町国際交流協会が、2006年3月下旬に発展的に解散、4月1日に下野市国際交流協会が設立されました。 
2 0 0 8年8月4日から10まで第1回下野市中学生海外派遣団(引率者含め37名)が7日間、ドイツの姉妹都市ディーツヘルツタールを訪れました。中学生1人が1家庭にホー ステイをして、家族の一員としてドイツの一般家庭での生活を体験しました。はじめは言葉や文化の違いに不安と緊張の表情でしたが、現地の中学生が企画してくれたスポーツ交流を通して、言葉の壁という大きな障壁をものともせずに、笑顔で積極的にコミュニケーションをとる姿が見られました。
また、ライン川下り、教会、古城の跡などを見学し、ドイツの歴史、文化を肌で感じることができ、派遣団員それぞれが充実した毎日を過ごしました。
また、この中学生海外派遣と合わせて、アウラント市長と古口教育長による両市の代表者懇談を行い、石橋町当時に 結した姉妹都市関係を継承していく意向で合意し、今後も友好を深めながら、交流を進めていくことを確認いたしました。
2 0 0 9年3月に姉妹都市であるドイツの中学生たちが下野市を訪問する予定です。
 
ところで、旧石橋町からの継続事業として、ドイツから国際交流員が1995年以降配置されています。下野市国際交流員は、ドイツ語講座、英会話講座、学 訪問などをはじめ、主に姉妹都市関係の調整において活躍しています。

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